3月31日更新
私が持つ一番古い記憶というのは,おそらく2歳か3歳くらいで,当時住んでいた長屋の部屋の仏壇のそばで腰を下ろしてひとりで遊んでいる,というものであるな。留守番中なのか,少し寂しい感情というのも一緒に持っていたように思う。
次は,友達か兄と一緒に,同じ長屋の細い道の端にある小さな階段を上って広場へ紙芝居を見に行く風景。
さらに,近くのお寺の松の木のそばで,乳飲料のおまけについてきた,女の子キャラの紙のお面をこっそりつけているところを友達に見つかり「おんな,おんなー」と囃されている場面。泣きそうになりながら「ちがうー」と言って友達を追いかけていたような。
不思議なのは,その記憶の中の映像には自分自身の姿も入っていることなのだよな。他者の視点で自分を見ている映像。
仏壇のそばの自分は大人の背丈くらいから見下ろしている感じだし,階段の場面では振り返る自分をうしろから見ているし,友達を追いかけている場面では,自分を正面から見ている。
だからその辺の記憶映像というのは,あとから「思い出し再生」するときに自分で脚色した映像なのだろうな。子どもの頃は記憶処理がまだ固まっていなくて,色んな要素が記憶の中に入ってきて,それをまた記憶として格納しなおしているのかもしれない。
まぁそれは大人でも同じで,記憶というのは自分に都合のいいようにある程度書き直されてしまうものなのだろうけど。大人も同じというか,子どものように純粋ではないのだろうな。
それと別に,みずから「この場面を記憶しておいてみよう」と自分の意思で記憶した光景というのもある。
小学校4年のときの,木造校舎2階の陽射しのあたる廊下。
それから,中学2年の部活の際の,階段に座って余りのビン牛乳を飲む高橋クンの姿。
他にもあったようだけど,今は思い出すのはそれだけ。
しかし,どちらもなんでそんな場面なのか。特別何かがあったわけでもないのに。よりによって高橋クンか。
でも,そのどちらにも自分の姿は写りこんでいないのだよな。とりあえず,ちゃんと自分の目をカメラとして記憶処理を制御できたのだろうな。
子どもの頃の記憶に出てきた長屋は,湊小学校近くに今でもある一角。今歩いても当時の雰囲気はあるような気がするけれども,実際はだいぶ変わっているのだろうな。
あの頃の映像を記憶でもいいからもっと持っておきたかったけれども,子どもにはムリな話であるよな。
何十年か後には,今現在の色んな風景も懐かしく思うんであろうか。
ということとはまったくもって関係なく,3月31日更新は「小ネタ物件114」。
雪の写ってる写真を夏場に出すわけにもいかないしなぁ。
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